因久山焼窯元
元鳥取藩藩窯
inkyuuzan

因久山焼の歴史
久能寺焼(因久山焼)とは貞享5年、1688年(元禄元年)出版された因幡民談記には
(鳥取藩医師、小泉友賢著)因幡郡郷土産物之事に久能寺焼として記載されています。
今から300年以上前には陶器を産出していました。
寛政7年(1795)鳥取藩医師、安部恭庵著、因幡志には、「久能寺焼 因幡国八上郡 久能寺村にて、陶器を作りしは、何時よりの事なるか詳ならず」
「当所楽焼土あり色赤白なり、往古は、久能寺焼とて、当国の名産なりし」とあります。

仲雅候花押茶碗
享保7年7月27日(1722) 釋秋岸信士 芦澤家初代なれど俗名不明歿
享保18年9月8日(1733) 釋浄光信士 芦澤家2代目なれど俗名不明歿
明和元年(1764) 久能寺焼を因久山焼と命名する。
天明5年(1785) 藩主仲雅候、茶碗に花押を刻む。
彩霞館花押茶碗


文化2年3月24日(1805) 7代藩主 斉邦候因久山焼で製陶作業をご覧になる。
文化3年4月24日(1805) 7代藩主 斉邦候、再度因久山焼で製陶作業をご覧になる。

御紋付茶碗

嘉永5年(1852) 窯出し年間22回くらい、お城、江戸ご用品を仰せ付けられる
安政2年(1855) 4代五平衛(50歳)、焼物師頭取を命ぜられる。藩主より煙管吸口の加押を許される。
万延元年(1860) お茶碗類の製作は頭取(五平衛)一人のみ命ぜられる。
湯吞み8万個製造。



吸い口五平衛とは
初秋、藩主が乗馬に出られ休憩中、
わきに置いた陣笠に1匹の赤とんぼが止まった。
その様子を焼き物で作るよう命ぜられ、
焼きあがったものを献上したところ、
事のほか喜ばれ褒美を取らせる事となる。
五平衛は煙草が好きで、自分の作品への煙管の
吸い口の加押をお願いしたところ直ちに許され、
以降は高台脇に煙管の吸い口が加押してある
ことから、吸い口五平衛と呼ばれるようになった。
6代 興平
刷毛目茶碗


文久2年9月12日 (1861) 12代藩主、慶徳候因久山焼で製陶作業をご覧になる
元治元年8月 (1855) 民間経営となる
明治4年 (1871) 鑑札制度実施、陶物師鑑札興平


7代 保親
染め分け菓子器
近隣で採取した鉄分を多く含む粘土で
成形後に、藁灰釉と緑釉を半分に掛け分けた物がよく見受けられるが、これは藁灰釉の上から緑釉をまだらに掛けていてます。

文久2年9月12日 (1861) 12代藩主、慶徳候因久山焼で製陶作業をご覧になる
元治元年8月 (1855) 民間経営となる
明治43年10月1日(1910) 侯爵池田仲博候より、角輪の印を捺印することを許される。
明治45年6月5日 (1912) 7代保親全国特産品博覧会褒賞状。名誉総裁、伯爵、大隈重信。
大正元年10月18日(1912) 7代保親中国6県生産品共進会1等入選。
昭和7年4月20日 (1932) 7代保親商工省工芸展入選(円形無紋花瓶)
7代 保親 角輪の印


7代 保親

